れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

相反する教え”儒教”

昨日の続き



そんな競争社会の韓国で住んでいていては、
さぞかし周りは棘とげしく、住むのはつらかろうと思われるけれど、そうでもない。
なぜならこの国は、教育による競争力の強化とは別に、



相反する教え“儒教”が深く働いている。



儒教は勉強したことがないので詳しい事はよくわからないけれど、だいぶ大雑把にいうと

■仁■ 人を思いやる事

■義■ 利欲に囚われず、すべきことをすること。

■礼■ 人間の上下関係を守ること

■智■ 学問に励む

■信■ 真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。


こんな感じだと思う。まさにこれが韓国人だと言ってもいいほどしっくりくる。


年上や敬う。とても情にあつく特に弱者を思いやる心を忘れない
約束を守り、誠実であり、一生懸命働く


自分が妊婦や乳児を抱えるという、肉体的弱者になったから
殊更強く、この国のよさを感じる。


電車やバスなどに乗れば席をすぐ譲ってもらえるのは勿論
バスのボタンを立って押さずに済むように運転手さんが声を掛けてくれたり
軍人の男の子達がベビーカーを持って階段を下りるのを手伝ってくれたり、

通りすがりの人が自然にいつも助けてくれる。
本当にいつも涙が出そうになるほどありがたい。

そういう面では子育ては日本よりも韓国のほうがしやすいだろうと思う。


思いやりは儒教の思想が教えてくれるので、あとは“感謝”を学べれば
娘をわざわざフィリピンに送らなくても済む。と考えているのだけれど
本来“感謝”とは道徳であり、私たち夫婦はクリスチャンであるので
“教会”で教えてもらいたいと思う、が
ここ韓国は、教会は少し残念な方向にいってしまっている。


教会では“競争”が働いてしまうのだ。


もしかしたら他の国もそうなのかもしれないけれど
私は韓国はこれが特に強いと思う。


教会同士の“人“の取り合い。
例えば今通っている教会でなく他の教会に行くといったら、ものすごいことになる。
全員と大喧嘩しなければ出て行けない空気だ。
本来、信仰は人を自由にしていくものなのに、宗教が人を縛る。


教会内での派閥争い。権力闘争・・


私にとって教会とは日々の感謝をしに行く癒しの場所であったのに
最近は教会に行くことが苦痛になってしまった。
人をたくさん獲得するために、仕事をたくさん押し付けられて
生粋のクリスチャンである旦那さんも最近はアレルギーが出てきている。


恐らく、すごくしつこい勧誘を行っているのだろう
無宗教の日本人の友人達は、韓国のクリスチャンには辟易している。
これは韓国特有だと思う。
フィリピンや日本に居る時、無宗教者達は
クリスチャンに対して善いイメージも悪いイメージも持っていなかったように思う。
けれど今は教会に通っているというと、白い目で見られるように感じる。



他者を導いていいのは、その人を救ってあげたいと思った時でなければいけない。
そして、言葉ではなく自分の行動を通して“生きる説教“とならなければいけない。
人の心にはどんな言葉も響かない。
自分の教会の中での立場を上げるために一生懸命仕事していても
絶対に人の心は動かない。

もちろん全員ではないが、私たち夫婦はとても残念に思っている。



教育に関して思えば“思いやり”と、“感謝”くらいは親が教えなければならないだろう。

真志亜は女の子なので競争力よりも協調性があったほうがいいので
そういう日本っぽい教育も家庭でしよう。(男なら競争力・第一だけどね!)

考える力や自立性、リーダーシップはどうしようかな?
アメリカに送らずとも伸ばせる方法ないかしら?

塾なんかにたくさん行くよりも
わたしは一カ国の教育では足りないものを足していってあげたい。


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