れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

傷のいろいろ

韓国にすんでいて、日本がこの国を植民地化していた時代がそう遠くないということはほとんど感じられません。

あえて、残してる日本的な建造物や遺産などを見に行っても、それが韓国と何の関係があるのか意味がわからないほどです。

ソウルやプサンは更にそれを観光地化していて、深く考えさせられるような思いに駆られることもなく、商売気に妙に興ざめし、ああ、そうかふーん。という思いしか抱けませんでした。

ふとしたところに日本の存在を感じてびっくりしたのが、韓国のど田舎にすんでいたときのことです。


その時、本当に田舎にすんでいて、日本の醤油すら手にいれるのが難しい、回りにも日本人はほとんどいない状況でした。

フィリピンの山奥に居た時だって、日本人はたくさんいて、いつもとても楽しかったので、長い海外生活でも初めて本物のアウェー感を味わって居たときでした。

そのときに本当にびっくりした出来事がありました。

博物館になんとなく飾ってあった1910年のその地域の写真が、完全に日本だったんです。

いつもわたしが見ている、寂れた韓国の風景ではなく、田舎だけれども日本語で、薬屋さん、食堂があり、着物を着た人まで歩いていました。

ああ、ここが日本だったんだ、、こんな韓国の田舎の田舎まで日本にされていたんだ。と本当に背筋が凍る思いでした。
すがるような思いで探しても日本のもの何か一つもないこの田舎のスーパーが、当時は日本のもので溢れていたなんて。
日本語を話せる人がいなくて、いつも寂しくて泣いている。
子供の日本語教育をどうしようか途方にくれているのに、たった100年前ここは日本で、日本語を話せる人がいっぱいいて、学校は日本語で勉強するところだったなんて・・という事実にあまりの衝撃でした。

(知識ではもちろんしっていたんですが、ヘレンケラーの WATER!!!これが水なのね!の瞬間のようなものだったっと思います)


ここからは歴史認識の相違とか謝罪とかそういう難しい議論はまた別にして、ただ日韓のはざまにすんでいるものの生活ブログとしてお楽しみください。


 

その田舎にすんでいるときに、日本の運転免許を韓国の免許に切り替えに、免許センターに行った時のことです。

そこには、とりあえず目の検査結果にはんこを押すだけの(今にも死にそうな)超おじいちゃん先生のお医者さんが座っていました。

 

私が主人に何気なく日本語で話しかけると、その目を閉じて座っていたおじいちゃん先生は、”カっ”と目を見開き、私にヨロヨロと近づいてきました。


私は、瞬間的にただごとではない気配を感じて、おじいちゃんと目を合わせたまま動けなくなってしまいました。

おじいちゃん先生は、私の前までくると、ヨロヨロと指をさし、
「ここに・・住所と名前を・・・・・」日本語でおっしゃいました。顔を真っ赤にして。


わたしは、なぜか涙がとめどなくあふれ出てしまって、おじいさん先生に「すみませんでした・・」と言っていました。


なぜそんな言葉がでたのか自分でもよくわかりません。でもいま考えるとあれが日本人として初めての韓国への謝罪の言葉だったのかなあとおもいます。


おじいさんは遠い記憶をさぐるように私から目を離さず、目の奥をずっとみていた。

そのおじいさんは、ボロボロになった日本語の小説を持っていました。
主人が、日本語の本ですか?と韓国語できくと、ハっと我にかえったように、椅子にもどり、目を深く閉じてしまいました。

 

日帝時代のことを、教育やインフラを整え、日本は韓国にとてもいいことをした。という人がいたり、都合のいい写真だけを切り取り、ほら、この時代の韓国人はみな幸せそうだとか、いう人がいます。


でも、こういう問題はいいとか悪いとか、二元論の話ではありません。

 

おじいちゃん先生の中にも相当な屈折した想いがあることは、あの10秒間でもわかりました。

わたしへのあの眼差しをみれば、それが残虐で不合理なものだけだったわけではないとおもいます。
でもこの政策はよくて、こういうのはだめだ、こんな残虐な人達がいて、こんな最悪な思いもした。でもいい人もいた、日本語のこの言葉にすくわれた。不遇に扱われて、名誉を傷つけられた、おじいちゃん一人の記憶の中でこういう思いがうずまいているようにもおもいました。

 

しかし一つだけ確実にいえるのは
どんなことがあっても他国から、文化や言語を奪ってはいけないということ。
わたしが一番申し訳なくおもったのはこの部分だったとおもいます。


おじいちゃん先生が小さいとき、日本がこなければ、どんな人生になっていたんだろう。いまでも日本語で本を読むくらい日本語のほうが楽で身についてしまっていたら、日本的な考え方や性格の癖が知らずに入ってきてしまい、韓国では生き辛かったのではないのかなと思いました。

韓国に生まれて韓国で生き、韓国人なのに、本は日本語で読むというのは、とても寂しい気がします。そのおじいちゃんの純粋な韓国人としての人生を奪ってしまった。



なんだかいろんなことを想像させる10秒間でした。

 

 

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