れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

徴用工問題

日韓の問題は多岐にわたり歴史も長く、私には難しい事ばかりです。
昨今話題の”徴用工問題”も私にはわからなくコメントに困るので、私の中の徴用工問題だけ

 

 

”記憶”の為に”記録”しておこうと思います。


2015年に私達家族は日本から韓国に再度引っ越しました。


主人は山奥の全寮制の高校での仕事だったので、私達が住む場所は電車もバスもほとんどなく、町のパン屋へ歩いて30分かかるような場所でした。
当時運転もできず、やっと2歳になる娘を抱えた私には、ほとんど”陸の孤島”でした。

かろうじて、多文化センターの韓国語授業は通えたのですが、娘を連れての勉強は困難を極めました。少し早過ぎるとはおもったんですが、私も生活の為の韓国語は早く覚えないと生きていけないと思ったので、授業がある午前中3時間だけ娘を保育園に預けることにしました。園バスは当然その時間になかったので、徒歩で送り迎えしました。

日本で毎日楽しく育児をしていたので、引っ越してきた当初は本当に寂しかったです。
韓国語教室に外国人はいたけれどフィリピン・中国・ベトナム人はたくさんいたので、国別に分かれてしまい、うまく友達もできませんでした。

朝から晩まで誰とも話さず、言葉も通じそうで通じない娘といると、精神がちょっとずつ病んでいきそうでした。

そんな時、私にいつも話しかけてくれたのは、保育園のバスの運転手さんでした。
運転手さんは、朝の運転がおわると、保育園の前でいつも待機していたので
私が朝昼、保育園に送り迎えにいくと必ず会い、いつも話しかけてくれました。

”今日は雨ふるからきをつけて~帰りは傘もってきなさい”と何気ない事を必ず毎日話しかけてくれました。たぶん私がよっぽど寂しそうにしていて心配してくれていたんだろうと思います。

このおじさんは本当に優しくて、2歳の子供達すら、運転手さんに話しかけてもらいたくて、いつも玄関で列をつくってウロウロしてました。
韓国には”タヨ”という有名なバスのアニメキャラクターがいて
子供達には”タヨアジョシ(おじさん)”と呼ばれてました。


タヨアジョシは優しいだけではなくて、教育もしっかりされてました。


用事があって、バスに乗せて帰宅をお願いしたことがあったんですが、
停留所で何人かのお母さんとバスを待っていたら、バスが着いてもまだ迎えに来ていないお母さんがいて、バスと一緒に皆で待っていました。

5分ぐらい待つとその子のお母さんは、いますぐ生まれそうな大きなお腹を抱えて、急いで走ってきたんですが、待たされた男の子は皆の前でとても心細く恥ずかしかったのか
”なんで遅れたんだよ~!!”と言って泣きそうになりながらお母さんのお腹をポンポンと叩きはじめました。

それを見たタヨアジョシは、バスのエンジンを切って、運転席からわわざ降りてきて
怒るでもなく、ただしっかりと、

”お母さんが遅れたんじゃなくて、今日はバスが早く着いたんだ。お母さんにそんなこと言ってはいかんよ。お母さんに謝りなさい”

と、優しく諭してから、またバスを出発させました。立派な方だなあと、関心したのを覚えています。

1年すぎて、また私達は引っ越すことになり、引っ越しまで時間があった主人と一緒に保育園の送り迎えをするようになりました。

タヨアジョシは主人ともよく話すようになり、ある日、意を決したように、ぽつりとおしゃりました。

 


”私のおじいさんは日本に行ったんだ。生まれたばかりの息子と妻を(タヨアジョシの祖母とお父さん)を残して。大変だったと思うが、その後現地で良くしてくださった日本人女性と結婚されたそうで、多分日本に自分の父の兄弟や、従弟がいるんだ。会ってみたいなあ・・”と。


タヨアジョシは私がショックを受けないようにごく普通の事、天気のことでも話すように話されました。”連れて行かれた”ではなく”行かれた”という言葉を使ったのも私への配慮だと何と無くわかりました。


どうしてそんな大事なこともっと早く行ってくれなかったんだろう・・
私ができる事ならなんでもしたのに、、とおもいましたが、言わなかった優しいタヨアジョシの気持も十分わかりました。

 

 

引っ越しまでもう何日も残っていなかったのですが、引っ越しても絶対に探すからタヨアジョシのおじいさんの名前を教えてほしいと伝えましたが、
昔日本から来たおじいさんの手紙をずっと大事に持っていたけれど、その手紙はタヨアジョシの息子に託してあって、聞いたけどもうどこにあるかわからないと言われました。

名前でも住所でも何かわかれば、お手伝いすると伝えましたが
日本にいるご家族も祖父が韓国に妻子を残してきたのを知らないかもしれないし、迷惑かもしれないと、、とても躊躇されていました。


そうかもしれないと思いました。日本で生きていくのは本当に大変だったろうし、どこかの段階で韓国からきたことも隠していたかもしれません。


でも祖父のお墓はあるだろうから、いつか墓参りだけでも行きたいなあとおっしゃられていました。


あれから3年、タヨアジョシと連絡は時々とっていて、手紙が見つかってないか聞きますが、会うのが怖い気持もわかるし、どうして差し上げればいいかわかりません。

このお話はここでおしまいです。


日本にいる日本人の皆さんの”徴用工問題”は恐らく
”企業と人の補償の問題”もしくは”政府どうし意思の不通”の問題だと思っていらっしゃっていて、そこには血が通った人間の痛みとか、韓国で幸せに暮らすはずだった何万人もの家族と子孫の悲しみとか、そういう細かい部分まで想像しがたいかと思いましたのでこのお話を書いておきました。+


これを読んで何か少しでも感じていただけたら嬉しいです。

 


いつも読んで頂きありがとうございます。