れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

アジアの戦争被害者の女性たちへ


慰安婦2

数年前、慰安婦の映画があって
そのパンフレットを最近見たんですけど、ほんとに衝撃をうけました。
(映画は怖くてまだみてない)

 


何故かというと、私は慰安婦問題を知識をしては知っていたんですが
それまで私はきっと、おばあちゃんが昔の戦争被害について声をあげている問題だという認識しか持っていなかったんです。

 


でもそのパンフレットにでていた慰安婦役の女性たちは
毎日わたしの家の前の坂道から降りてくる、
まだ、ほとんど子供の韓国人の中学生の女の子たちの笑顔そんままだったからです。
恋愛も知らないような子供達に、毎日朝から晩まで荒くれた外国人の軍人が性暴行を・・
あと数年後の娘に姿を重ねてしまったのか、なんだか涙がでてしまったのを覚えています。問題を視覚化する重要性を感じました



こういう話をすると、一部の日本人からは
慰安婦は売春婦だったとか、望んで仕事をしてた、高給料で幸せだったとか
韓国人の元締めがいたとか”慰安婦は売春婦” ”河野談義で既に謝罪済み”

”戦後補償済み” ”不可逆的に解決済み”ガー!

…とお決まりのパターンでなんだかよくわからない反論を受けるんですが



何十万人もいた慰安婦が全員望んで働く高級取りの売春婦だったのか?
時代背景を考えて
ただ想像してみてください。


家族が食べるために泣く泣く体を売ってる娘もいただろうし、
家族に売られた子もいただろうし、仕事があるって騙されて連れてこられたり、
美しい子は狙われてさらわれた子もいたでしょう。
さらわれて一度は逃げたけど、遠い外国の戦地で食べれず結局、売春宿に戻ったり
何万、何十万通り、いろんな状況があったんじゃないかと思いいます
慰安婦はいなかったというのはあまりにも乱暴な気もします。



韓国の慰安婦の話だと、私が変に韓国に肩入れしているように聞こえるので
話をマニラにします。

戦時中、マニラに日本軍が駐軍していたとき
その場所の近所にある父子家庭の親子が住んでいたそうです。父一人、娘一人
娘さんは毎日その駐軍所の脇を行き来していたそうです。

ある晩、就寝中、突然日本の軍人が何人も入ってきて、娘さんを連れていこうとしました。
恐らくその娘さんはとても美しく、日頃から軍人達の目を引いていたのでしょう。
父親は激しく抵抗しましたが、娘さんの目の前で刺し殺され、彼女は日本人の将校が住む家に連れていかれ、毎晩毎晩その将校や客人の性接待をさせられたそうです。

大分時間がたったあと、隙をみて逃げ出しに成功しますが、家族もおらず
その後、美しい彼女には求婚する男性は何人も出てきたそうですが
夫婦の”性生活”を想像すると、恐怖で結婚できなかったそうです。


天涯孤独で年を取り
山奥で、ほぼ自給自足のような暮らしをしながら1人生きているそのおばあちゃんは

今でも父親を思い出すと、気づくと何時間も泣いてることがある

 

 

 

というお話でした。

 



実話かどうかはわかりません、わたしも聞いたお話です。



仮に声を挙げた中の韓国の慰安婦の女性たちが、当時給料を得ていたり、賠償金目的だったとしても、こういった戦争の踏み石になったような名前もない被害者の女性たちはアジアにたくさんいます。

そういった方々に対して、日本政府のおっさん達は、
謙虚に手を合わせるなり、言葉を伝えることはできませんか? 
本当に世界に出るまで知らなかったけれど
日本は戦争での”加害”の教育は自国民へほとんど行っていないのです。


事実をなかったことにしないこと、被害を認めること、
彼女たちの人生に心を寄せること。

何十年たってもきえない悲痛な心の叫びをきくこと、
何をどうしても癒せる傷ではないけれど
そういった弛まぬ努力は
”解決済みと”
お金を払って途切れるべきではないとおもっています





追記
今回の慰安婦の問題については
”女性として”の意見です。
次回は、”日韓ハーフの娘の母”としての意見を書こうと思います。

謝られたら許さないといけないの?

慰安婦1

話題にのぼることが多い慰安婦問題について少しづつ書き留めておこうと思いました。

 

慰安婦に関しては、私一人だけでも多角的にいくつかの意見があり、
一枚岩ではありません。

 

1:日本人として、

2:在韓日本人として

3:女性として

4:娘を持つ母として

5:人間として

 

 

日韓関係について誰かと対話したとき、1~5どの意見を述べるか迷いがあり

韓国人とも日本人とも(率直にいうと面倒なので)誰とも話しません。

韓国人にとって、慰安婦問題というのは何なの考えてみました。

韓国に住んで数年たって、韓国がほとんど分かってきた気になってきたけど

慰安婦についての韓国人の思い深さはまだ理解できないでいます。


もちろん私も同じ女性として、娘を持つ母親として、従軍慰安婦に就いた方々に対し
胸が張り裂けそうな思いを持ちますが、

韓国人にとっての慰安婦は、そういった一般的な戦争被害者に対しての感情とは全く別の対象であると感じます。

 

 

 


韓国人にとっての慰安婦は、恐らく一番つらい時代の代表的出来事で、象徴的存在。

これからもずっと全員が心に刻むべき、語り継ぐべき対象で
被害の大小や、お金などの補償問題だけではないように感じます。

 

 

まず、ここから掘り下げないといけなくなりますが、
”日韓のもっとも根本的な溝というのは文化の違い”にあります。
なぜなら、日本人は、幼少期から謝られたら許すという教育を受けている

「ごめんね」と言われたら「いいよ」と言わなければいけない。

長年日本人をしてきて、わたしも当たり前の文化すぎて、違和感も感じませんでしたが
私はこれは間違っているんじゃないかと最近思い始めてきました。

 

 


謝る側が優位に立っている


「謝ったのに許してくれない」と怒ってはいけない。

加害者は、「許す」ことを強要すしてははならない。

「許す」かどうかを決める権利は、被害を受けた側にある。


そしてどの程度を”許す”かの判断は国の文化によってちがう。

 



日本では”許す事”と”忘れる事”というのは違うとおもうけれど
韓国の場合、許す=忘れる、なかった事、 になるように感じる。

 

 


韓国人同士は、激しくぶつかるけれど、一旦許すとわだかまりがのこらない。
なので、”忘れてはいけない事は=許してもいけない事”になる。


そういう”許してはいけない=忘れてはいけない”
という韓国人の気持が、日本人には伝わりにくいんじゃないかと思いました。




慰安婦問題はこのような両国の文化の違いも問題をより複雑化している。
日本と韓国は文化が似ていて、顔も同じなので
同じ文化を共有しているように錯覚するけれども、まったく違う。


”謝った”で済むのは日本の文化であり、外国文化では通用しない。

 

もちろん韓国側にもも問題はたくさんあるので,また次回

 




~ポイント~
(日本文化)
☆謝られたら、”いいよ”と言わないといけない、
=謝ってるのにゆるしてくれない、いつまで謝ればいいの

(韓国文化)
☆許す事は忘れる事、なかった事にしなければならない
=歴史の誤りを許す(忘れる、なかった事にする)わけにはいかない



↑なので永遠にわかりあえないとおもいます。

傷のいろいろ

韓国にすんでいて、日本がこの国を植民地化していた時代がそう遠くないということはほとんど感じられません。

あえて、残してる日本的な建造物や遺産などを見に行っても、それが韓国と何の関係があるのか意味がわからないほどです。

ソウルやプサンは更にそれを観光地化していて、深く考えさせられるような思いに駆られることもなく、商売気に妙に興ざめし、ああ、そうかふーん。という思いしか抱けませんでした。

ふとしたところに日本の存在を感じてびっくりしたのが、韓国のど田舎にすんでいたときのことです。


その時、本当に田舎にすんでいて、日本の醤油すら手にいれるのが難しい、回りにも日本人はほとんどいない状況でした。

フィリピンの山奥に居た時だって、日本人はたくさんいて、いつもとても楽しかったので、長い海外生活でも初めて本物のアウェー感を味わって居たときでした。

そのときに本当にびっくりした出来事がありました。

博物館になんとなく飾ってあった1910年のその地域の写真が、完全に日本だったんです。

いつもわたしが見ている、寂れた韓国の風景ではなく、田舎だけれども日本語で、薬屋さん、食堂があり、着物を着た人まで歩いていました。

ああ、ここが日本だったんだ、、こんな韓国の田舎の田舎まで日本にされていたんだ。と本当に背筋が凍る思いでした。
すがるような思いで探しても日本のもの何か一つもないこの田舎のスーパーが、当時は日本のもので溢れていたなんて。
日本語を話せる人がいなくて、いつも寂しくて泣いている。
子供の日本語教育をどうしようか途方にくれているのに、たった100年前ここは日本で、日本語を話せる人がいっぱいいて、学校は日本語で勉強するところだったなんて・・という事実にあまりの衝撃でした。

(知識ではもちろんしっていたんですが、ヘレンケラーの WATER!!!これが水なのね!の瞬間のようなものだったっと思います)


ここからは歴史認識の相違とか謝罪とかそういう難しい議論はまた別にして、ただ日韓のはざまにすんでいるものの生活ブログとしてお楽しみください。


 

その田舎にすんでいるときに、日本の運転免許を韓国の免許に切り替えに、免許センターに行った時のことです。

そこには、とりあえず目の検査結果にはんこを押すだけの(今にも死にそうな)超おじいちゃん先生のお医者さんが座っていました。

 

私が主人に何気なく日本語で話しかけると、その目を閉じて座っていたおじいちゃん先生は、”カっ”と目を見開き、私にヨロヨロと近づいてきました。


私は、瞬間的にただごとではない気配を感じて、おじいちゃんと目を合わせたまま動けなくなってしまいました。

おじいちゃん先生は、私の前までくると、ヨロヨロと指をさし、
「ここに・・住所と名前を・・・・・」日本語でおっしゃいました。顔を真っ赤にして。


わたしは、なぜか涙がとめどなくあふれ出てしまって、おじいさん先生に「すみませんでした・・」と言っていました。


なぜそんな言葉がでたのか自分でもよくわかりません。でもいま考えるとあれが日本人として初めての韓国への謝罪の言葉だったのかなあとおもいます。


おじいさんは遠い記憶をさぐるように私から目を離さず、目の奥をずっとみていた。

そのおじいさんは、ボロボロになった日本語の小説を持っていました。
主人が、日本語の本ですか?と韓国語できくと、ハっと我にかえったように、椅子にもどり、目を深く閉じてしまいました。

 

日帝時代のことを、教育やインフラを整え、日本は韓国にとてもいいことをした。という人がいたり、都合のいい写真だけを切り取り、ほら、この時代の韓国人はみな幸せそうだとか、いう人がいます。


でも、こういう問題はいいとか悪いとか、二元論の話ではありません。

 

おじいちゃん先生の中にも相当な屈折した想いがあることは、あの10秒間でもわかりました。

わたしへのあの眼差しをみれば、それが残虐で不合理なものだけだったわけではないとおもいます。
でもこの政策はよくて、こういうのはだめだ、こんな残虐な人達がいて、こんな最悪な思いもした。でもいい人もいた、日本語のこの言葉にすくわれた。不遇に扱われて、名誉を傷つけられた、おじいちゃん一人の記憶の中でこういう思いがうずまいているようにもおもいました。

 

しかし一つだけ確実にいえるのは
どんなことがあっても他国から、文化や言語を奪ってはいけないということ。
わたしが一番申し訳なくおもったのはこの部分だったとおもいます。


おじいちゃん先生が小さいとき、日本がこなければ、どんな人生になっていたんだろう。いまでも日本語で本を読むくらい日本語のほうが楽で身についてしまっていたら、日本的な考え方や性格の癖が知らずに入ってきてしまい、韓国では生き辛かったのではないのかなと思いました。

韓国に生まれて韓国で生き、韓国人なのに、本は日本語で読むというのは、とても寂しい気がします。そのおじいちゃんの純粋な韓国人としての人生を奪ってしまった。



なんだかいろんなことを想像させる10秒間でした。

 

 

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