れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

許されざる生活

人に迷惑をかけない、というのは

日本人にとって、“病的”に守るべき事柄であると

最近痛烈に感じる。



子供と公園に遊びにいくと

回りのママたちは

終始、注意してばかりいるのに気づいた。



これは○○ちゃんのでしょ!
取っちゃだめでしょ!
押しちゃだめでしょ!
順番でしょ!
後ろに人いるでしょ!
なんて事するの!
お友達に痛くしないで!


延々延々延々・・・・




皆、ヨタヨタ歩いているから、近くの人を押すことだってある。


1才児に自分と人の物の区別がつくはずはない・・。




そもそも1歳児には言葉が通じてない。




お互いわかってるので


子供に言って聞かせているというよりは



迷惑をかけている子供を責めて、自分の努力を認めて欲しいのである。




うち子供はのろのろしているので、迷惑をかけるというよりは
アクティブな子達に絡まれたり取られたりして泣くパターンが多い


そうすると、アクティブっ子のママたちは飛んできて
何回も謝る。
そのうちにまた違う子に取られたりして
“ごめんなさい無限ループ“に入り込む。



遊びにいってるのか、謝られに行ってるのか
わからない・・。



子供なんて、喧嘩するのがあたりまえだ。

取られたり、取ったり、やったりやられたりの繰り返しではないのだろうか?

それを含めて、遊びだ。





日本は“迷惑”をかけないよう気遣いする文化である。

外国にいるときは

この日本人の配慮や気配りの文化がほんとに心恋しく思っていた。




でも最近はこれが完全に裏目にでていると感じる。


なぜかと言うと


自分は迷惑をかけないように最大限努力しているから



人の迷惑を許容できない。



先日の公園の話だ。


結果
皆が生きづらい世の中になってしまっている。




フィリピンやインドは、(気候か宗教のせいかわからないけれど)

自分も人に迷惑をかけながら生きているのだから



人に迷惑をかえられたときは許す。



という教育を子供にしている。



何でも許す。


飛行機が何時間おくれても


レストランの食事がまずくても


洪水で家がながされても



何でも許すのである・

いつも笑っている。




私はフィリピンでの“許された生活”に深い安らぎを得た。

彼らの生き方や考え方に影響され、洗礼もうけた。

でも悲しいけれど、私の愛する主人の国、韓国では

安らぎは感じなかった。

憎み、疎み、妬み、恨みの中の生活。



そして今は“愛する我が母国“日本でも





また“許されざる生活”の中にいる






普通しか許さない人々

先日、我が家の近くにある、近所の公園の取り壊しの通知が配られました。





今も大して何もない、滑り台と砂場、ブランコだけのほんとに小さい公園ですが
取り壊して、全面芝生にするとのことでした。





500mくらい歩けば、大きな県営と市営の公園があるのですが この目の前の公園は
すこし晴れたので30分だけとか、 お見送りのあとちょこっと立ち寄ったりするのに便利な公園で
なくなるというのはとても残念なことでした。



ただ、今後何かが建つので、という訳でもなく、
今もほとんど芝生なのに取り壊すのは合点がいかず、今週の土曜日の抗議のBBQ集会があるということで参加しようと思い、
なんとなく、近所のままさんにそんな話をしたところ、驚くべき回答がかえってきたんです。




二人の小さな男の子を持つそのママさんは




公園取り壊しに賛成だということでした。






というのも、公園内にあるコンクリートの壁のあたりに(スケボーなどの練習できるようにハーフパイプ?が整備されている)

夕方すぎると中学生・高校生の男の子が集まってくる、素行の悪そうな子供達ばかりで教育環境ににわるい

そして、いつもペットボトルなどのゴミが散乱していて、本当に迷惑だということで


わたしは取り壊しに賛成だ、むしろ推進派だということだったんです。



これをきいてわたしは本当にびっくりしました・・




だってね、高校生って、まだ子供なんですよ。



近所で友達と気軽に会える場所が必要だと思うんです。


親と喧嘩したあと、ちょっと頭を冷やす場所とか、



勉強の合間リフレッシュに運動できる場所。



夜中にスケボーやってるわけでもないし、公園は小さな子供だけのものでもない。
(小さい子供は早めに帰るので高校生との住み分けはできている)

ゴミを置いてかえるのだって、そもそも公園にゴミ箱がないのが問題なのであって



素行だけの問題でもない。


そもそも、乳幼児だって、社会にものすごく迷惑をかけて生きている。





公共の場所で子供の声はうるさいだろうし、ちょろちょろして、本当に危ない。



逆を言えば、小さい子供が集まるとうるさいから、公園を撤去しましょうというのと同じ問題だ。




なんか久し振りに日本に住んだから、感覚がずれているのかすごくびっくりした。




フィリピンでは(韓国でもすこし)



子供はうるさいのが当たり前


未成年はちょっと悪いのがあたりまえ


女はか弱いのが当たり前



老人はうるさいのがあたりまえ



というのがある程度許容されている社会で


不完全な人は人に迷惑をかけていきるのが当然の社会だった。





そもそも普通ってなんだ?

五体満足で成人してて、仕事してて、常識があって、ルールを遵守する

これが普通の人々?日本に何パーセントいるんだろう。




社会は未熟や不完全な人びとの集合体ではないでしょうか?






わたしたち日本人は普通でないことにすごく怯える。






そして人に迷惑をかけるのは、最も”社会悪”だという教育をうけてきた。







その“迷惑”の線引きは過剰になってきていないでしょうか?



自分の立場や状況だけを考えて発言すれば、周りは迷惑な人だらけということになります。





高校生が公園に集まるのも、



ベビーカーで電車に乗るのも


保育園で子供が大きな声を出すのも



車椅子や目の不自由なの人が外出するのも








あなたの迷惑ですか?






そして







迷惑なものは排除していけばいいですか?




じいちゃんの怨念(笑)

じいちゃんが死んでから

明日はじいちゃんの5年祭、親戚であつまってご飯を食べる予定です。

と、昔の書類の整理をしていたら、一発目でじいちゃんが死んだ日に書いた日記がでてきてびっくり。。。そのときの気持ちを思い出せよ!っていう
じいちゃんからの怨念を軽く感じます(笑)




以下



日記を書けなかった理由はもうひとつあって





9月に母方の祖父母が同時に倒れました。





二人とももう長らく病気で、

おじいちゃんは入退院を繰り返していましたが、ガンが首の後ろに転移し、手術が出来ず治療をやめ

先々週亡くなりました。

おばあちゃんは18年前、脳梗塞で倒れ、ずっと療養型の老人ホームに いましたが

祖父の癌が転移して、あとを追うように2度目の脳梗塞で完全に寝たきりになりました





弟から祖父の死の知らせを聞いたとき

今日から、わたしの人生にこれからずーっとおじいちゃんがいないという事実が苦しすぎて、立っていられませんでした。

積み木の大事な部分をひとつ引き抜かれた見たく、一瞬で音を立てて崩れていくような。

いそいで帰国し、上野駅でいつものようにおじいちゃんに“お土産”を買おうとおもったとき

今日から“お供えもの”なんだなと思ったら、電車で号泣してしまいました。

今まで生きてきた中で一番悲しかった。

涙がずーっととまりませんでした。






祖母は倒れたあと、寝たきりになり、今は口の閉じ方も忘れ、空ばかり見ています

病院で危篤の祖母の手をにぎったとき

わたしは生まれてはじめて、自分の命を削ってもいいから、引き換えでもいいから祖母に回復して欲しいと願いました。







18年前に倒れてから、リハビリを一生懸命がんばり、少しづつ歩けるようになってきたのに酷いものです

おばあちゃんは、“ごっくん”が出来なくなってしまったので

もう物を噛んで食べることができなくなっていました。

うまく話すことができないので

“きょとん”として私の顔を見つめるだけのおばあちゃんを見ながら

不思議だなあと思いました。






よだれを拭いてあげたり、ほっぺをプニプニしたり、手をにぎってみたり

32年前、私が生まれた時におばあちゃんが私にしてくれたことを

今はおばあちゃんいにしてあげている






わたしは赤ちゃんの頃、おばあちゃんにそうしてもらった事を覚えているのだと思います。







だって誰にでもそうしてあげたいと思うわけではなく

また、血のつながりがあるというだけで、愛してるわけでもない

たぶん私を愛してくれたから、愛している。




私のおとうさんはいつも忙しく、おかあさんは年子の弟がすぐ生まれて大変だったので、

わたしはさみしいときはいつも祖父母の家に行き甘えていました。

小さい頃から、わたしはいつか おじいちゃんと、おばあちゃんが先に死ぬんだと考えただけで

怖くて泣いていた。




ついにこの時期がきてしまった。




彼らの惜しみないほどの愛情と手間を受けてわたしはここまで大きくなったのに


私がおじいちゃんに返せた事は本当に少ない


これからも私がおばあちゃんにしてあげる事も、してあげられる時間も本当に少ない


彼らから受けた愛情は、大事な宝物みたいに心の奥にずーっと残っていていつも私を支えてくれる


でも子や孫が、祖父母や両親に返せることは本当に少ない