れいらさんの日記

海外でゆるく生きてます。つれづれと書いていくだけの日記

コロナと消えていく私

近所のマートの回転すしに銀座で修行してたという韓国人のお兄ちゃんがいました。

娘がお水をこぼしてしまって、大パニックの時に日本語ではなしかけてくれたのがきっかけでよく話すようになりました。

明るくとても素直でいい子だったので、日本でみんなにかわいがられていたようで、日本が大好きだと言っていました。

コロナで仕方なく韓国にかえってきたらしいんだけど、行くといつも話しかけてくれて、メニューにないエンガワなどを作ってくれました。
娘はお兄ちゃんが大好きで、週末公園帰りにお寿司を食べて帰るのがとっても楽しいひと時でした・・。


でもやっぱり本人は料理で上を目指して行きたかったようで、釜山の新しいホテルのメニュー研究員に合格し、今日が最後の勤務日でした。
私は勝手に親せきの子みたいに思ってたのでとても残念でした・・。
ホッとする場所がまた一個なくなりました。

コロナが長引いて、家族や友達に会えないのも勿論つらいけど、
ふらっといって世間話するとか、そういう場所が少ないのが今ジワジワと辛いです。

息ができなくて溺れて行きそうな気持ち。

友達はいるけど、在韓日本人はみんないっぱいいっぱいで、会うと愚痴か、泣き虫会になってしまう。

知り合いは全員女性で、既婚者で、結婚移民というのもよくない気がする。
気持ちがわかりすぎるし、なんかバランスがよくない。
老若男女問わずいろんな人とかかわるのがやっぱり人間として自然な気がする。

訪ねてきた親せきのおじさんと話すとか、そういう事だけでも気分が変わると思うんだけど、そういう場所や人がないので、気分が落ち始めるとどこまでも落ちてしまう。
数日で浮き上がれたらいいけど、気が付くと何週間も鬱々してしまったりする。

そんな時の主人は無力で、優しさで、そっと距離を置かれてしまう。
私も主人には八つ当たりしてしまうので、まあ相方なりの生きる術なのかもしれません・・。


韓国語が全然伸びないのが問題で10年以上住んでるから、新聞読んだり、聞き取りもできるけど、やっぱり話す韓国語が思ってるより伸びない。韓国語で無駄話のようなものはつらい。
娘と夫の日本語教育のためではあるんだけど、私はずっと韓国語から距離を置いていて、生きずらさを抱えたまま生きている。

講座や資格の学校に通ったりはしたけれど、あまり変わらなかった。韓国語が苦手なのか韓国人が苦手なのか、韓国語を使っている自分が苦手なのかよくわからない。
でも最後だとおもう。韓国語を使っている自分が好きになれない。
ここはまた深い話になってしまうのだけど、儒教の兼ね合いで韓国語を使うと自分らしさが全く消えてしまう。。

今、何か抜本的に自分の生活を変えないと私はダメになってしまう。
たぶん仕事ではない。仕事はもう飽きた。
飽きたっていえばいいのかな、なんというかわからないが、これ以上はお金の為には頑張れない。主人も好きな仕事だから頑張れているんだと思う。
私も何か自分を見つけて打ち込まないと自分の輪郭が消えてなくなりそうだ。

最近は書くのをさぼっていて、書き方も忘れているんだけれど、なんでもいいから思いを打ち込んでいこう、自分が何もかも消えていきそうな気がする。
















望まない生活?

毎日ブログを書こうと思ったけど、やっぱり毎日こどもがいると難しい。

今、学校はは週2回、2時間だけしかいかないので、ほぼ毎日ずっと一緒にいる。
娘とのこんな時間も長い人生においてもうないかもしれないと、前向きに考えようとしているけれど、自分の時間がないのはじわじわと辛い。

何が辛いのかもよくわからなくなっている。主人は優しいし、娘はかわいい。
辛いのはただの自分のわがままのような気がしてくる。

けれど、自己肯定感が下がっているのが一番つらいんだと思う。

朝おきて、朝飯作って、掃除して、洗濯して、勉強させて宿題させて、昼飯作って、片付けて、スーパー行って夕飯作ったら1日終わってしまう。何者でもなく、だれにも感謝されない。こんな生活がもう何か月も続いていている。

子供ができてからは基本こんな生活だけど、勉強したり、友達にあったり、日々の喜びみたいなものは少しだけあった。今は何の楽しみも見つけられない。

自分が社会と断絶されている気がして、それが一番つらい。


主人がらやましくもある。大変な事はたくさんあるだろうけど、充実感や喜びもあるだろうし。

 

がんばらなきゃ、しっかりしなきゃ、楽しみをみつけなきゃ、幸せにならなきゃ

思えば思うほど苦しくなる。

 

でも、また私は自分を追い込んでいないだろうか。重要な何かになろうとしすぎてるんだろうか。すごい人と思われたい欲求に負けているだけではないだろうか。

本当にやりたいことって今ちゃんとできているんではなだろうか?


私は娘にさみしい思いを一切させず、思い切り甘やかして育てたかった。


結果的にいままで仕事に踏み切れずにいたのは、そこのラインを自分超えれなかっただけだ。いつも環境や主人の協力のせいにしていたけれど、自分が自分で課したラインを自分で超えれなかっただけだ。

思えば、私はいつも自分で作った自分のルールを破れずにいる。
ゲームを与えない事、YouTubeは時間をきめること。子供のまえでしないこと、小さいことだけれど、自分の中の無数の子育て決め事があって、それがじわじわと子育てを辛くしてきている。


コロナを機にもうすこし自分を見直さなくては。

私は何がしたくて、どんな生活がしたかったのか。

よく考えたら、娘の成長と向き合える今の生活は本当に幸せだ

お互いにストレスをためてイライラせず、仲良くコロナを乗り切りたい


学歴が人格を作る

学歴が人格をつくる。

極論すぎて大反論がきそう笑

私も主人も結構学歴偏重主義かもしれません。
特に主人は教育関係者なので顕著なんですが、ここ韓国では学歴がないと一生苦労するのが目にみえているので
自分も子供に酷使を強いるのはつらいけれどそれででも人生の今だけの苦労だとおもい

心を痛めながら鞭をふるっている。

そんな主人は弁護士や医者、大企業勤務のお金持ちが多い地区の子供に教えるのを好む。

遺伝子レベルで才能があるという理由ではなく、親が学歴がある子供のほうが教えやすいそうだ。

一定の努力水準を超えた大人は、勉強ができないことは
”本人の努力が足りない事”
というあまりにもシンプルな事を理解できている。
子供にもあたりまえのようにそう接している。

なんでうちの子はこんなにできないんですか?とか弱点を教えてくれとか。試験対策をしてくれ、あの先生はよくないとか


できない親はとにかく要求と不満が多いそう。

ある程度やれば、どこが弱いか、自分に必要な勉強はなにか自分がよくわかっているはず。それを”できない親”は先生のせいにする。そうです…

できる親は、自分自身の努力でなんとかした実績があるので
”先生が一生懸命おしえてくださってるのになぜ試験ができなかったんだ?”
と根本的な原因を探ろうとなるそうです。

そらそうだよね、リコーダーがうまくならないのを先生のせいにする親はあまりきかない。音楽だったら練習が足りないからだとすぐおもうのに、お勉強だとなぜ先生のせいにするのか

なんとなく、わかる。
できない親は不安なんだ。子供を信じることができない。
自分の不安を満たすために、子供を塾に送りまくり、あれが足りないのか、何が足りないのか焦りまくる。
やっぱりできる親は心の余裕が違う。外的な要因に原因を考えない。
小さい努力を積み重ねる事、本人に目標ややる気があれば、時間をかけても目標が達成できることを知っている


うちはお金持ちではないけど、やっぱり心にある程度のスペースはもっていたい。
専業主婦で享楽的に生きようとおもえばいくらでも生きられるんだけど
なんとなくあっち側の崖には落ちたくない。
落ちたらどこまでもまた落ちていき、人をねたみうらやみ不満や愚痴ばかりの生活になり人にもやさしくできなくなりそうだから・・・
自分自身を信じることができれば、子供を信じることができる。


それがいつも細々でも勉強を続ける理由


勉強する事は、人にやさしくなる事